| アフロ・ブラジル文化の誕生 |
ブラジルという国名はポルトガル語で『赤い』の意味で、赤色染料の原料『パウ・ブラジル』という名の木を多く産出したことに由来する。大航海時代にヨーロッパ人に発見され、16世紀中に砂糖キビ栽培が盛んになると、ブラジルには世界中から人種が集まるようになった。原住民であるネイティヴ・ブラジリアン、新事業のためにやってきたポルトガルを始めとするヨーロッパ人、広大な農場を目当てに海を渡ってきた、日本を含むアジア人やアラブ人。そして、ヨーロッパ人の入植とほぼ同時期に、大量のアフリカ人が労働奴隷として南米のこの地へ移住させられた。
アフリカ人奴隷はそれぞれの農場経営者の管理下に置かれた。主人達はセンザーラと呼ばれていた奴隷小屋に、異なる部族の者を混在させてお互いを監視させた。奴隷達に課せられた労働は過酷を極め、健康な男子でも平均余命は10年以下だったという。そんな厳しい生活を続けていた彼らも、自分達の時間を持つことは許されていた。限られた中で奴隷達は、自分達の部族の踊りや音楽を楽しみ、故郷の神に祈りを捧げた。そしてこの行動が奴隷達にある変化をもたらすこととなる。アフリカを離れ、初めて触れた他部族の習慣と儀式。それまで地域ごとに様々であったそれらは次第にアフリカという大きな枠組みで融合と改良を繰り返し、新たな文化『アフロ・ブラジル文化』を生み出すこととなるのである。 |
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| 全ては神への祈りから |
圧倒的な陽気さとアップテンポなリズムが特徴的なサンバも『アフロ・ブラジル文化』の一つである。押さえきれないエネルギーを灼熱の太陽の下に爆発させる痛快さと爽快さを持ち、現在では世界中で愛されている。
しかし彼らの文化がこのような華やかな発展を遂げたのは、驚くほど最近のことである。サンバに見られるようなエネルギーに満ち溢れた潜在能力はあったものの、貧困と重労働にあえぐ奴隷時代にそのような余裕はなかった。明日の我が身を考えなければならなかった彼らは、厳しい現実に押し潰されそうになる心を、自分達の伝統を元に生み出した宗教『カンドンブレ』で癒した。そして、主人達がふるう暴力や弾圧から身の苦痛を避けるため、故郷の神を崇めるためのダンスはやがて祈りの域を超えていく。
格闘技『カポエラ』の原点
奴隷達は主人の目を盗んでは、カポエラの練習を行うようになる。しかし、いつからそれがカポエラと呼ばれるようになったのか、現在のところ分かっていない。それどころか、奴隷制度時代のカポエラがいかなる形であったのか、はっきりと解明されていないのが現状である。両腕を鎖でつながれたまま戦っていたとの説があれば、単なる喧嘩の道具で音楽も踊りの要素もなかったとの説もあるのだ。カポエラの歴史を語る上で大きな足かせがある。ブラジル政府は奴隷解放宣言を行った際に、後の非難を避けるために奴隷に関係する資料を燃やしてしまったのだ。
ただ一つだけ言えるのは、カポエラは奴隷達の中で単なる格闘技ではなく、精神的支柱にもなっていたということである。支配層に対する反抗と、故郷に対する強い誇り。彼らはカポエリスタ(カポエラを担う者)であることに強い自負を抱いていたのだ。
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| 時の流れと『カポエラ』の迷走 |
しかし、時と共に世の中は変化していく。奴隷達が担ってきたカポエラは、時代が進むにつれて逃亡奴隷や解放奴隷から自由人へ、人種的にも黒人から混血や貧しい白人へと広がりをみせていった。それとともにカポエラの中心地は、農場地帯である中東部のバイーア州から首都リオ・デ・ジャネイロへと移った。だが、都会の新しいカポエリスタはカポエラの暴力性だけを社会に印象付けることになる。彼らはマウタと呼ばれる暴力団グループを形成し、縄張り争いを繰り返した。有力者の用心棒や対立相手に対するゆすりにたかり。その行動は次第にエスカレートしてゆき、カポエリスタは社会の厄介者のレッテルを貼られてしまう。
奴隷解放宣言の1年後、1889年にブラジルの国家体制が帝政から共和制へと移ると、新政府はカポエラを犯罪とみなす法律を発布する。カポエリスタの起こす犯罪が多発する事態を重く見た政府が、「以後はカポエリスタを発見次第罰する」と規定したのだ。路上や広場などでのカポエラの練習が禁止され、マウタの構成員には島流しなどの重刑が処せられた。奴隷制度時代には貴重な労働力として機能していた多くの奴隷達も、解放後は貧困層に組み込まれ、社会の治安と発展を乱す存在としか見られなかった。しかし、平等主義を掲げる共和制を布く政府としても、彼らを社会にいかに取り込むかが課題となっていた。
20世紀初頭、リオ・デ・ジャネイロの軍人や作家、知識人達の間でカポエラをブラジルの国技にして、スポーツとして発展させようとする動きが現れる。そこには『ブラジルのアイデンティティー』を求めるナショナリズムの気持ちがあった。しかし、この運動は上流階級の主導であったことと、リオのカポエラがあまりに悪い印象を持っていたことから、民衆を巻き込んだ大きなムーブメントにはならず、やがて消えていった。 |
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| 『カポエラ』の大成と2つの流派 |
| 1920年代後半、カポエラ発祥の地でもあるバイーア州で、カポエラ史を大きく変える現象が起こった。メストリ・ビンバ(メストリ=マスターの意)が伝統的なカポエラに他の格闘技の要素を加えた新しいスタイルのカポエラを創ったのである。彼はそれまでのカポエラがゆっくりとした動き主体で技数も少なく実戦向きではないと考え、競技性、スポーツ性を高めるためにカポエラの体系化に着手し、『ルッタ・ヘジオナウ・バイアーナ(バイーア土着の格闘技)』と名づけて活動を起こした。ここで『カポエラ』の言葉を用いなかったのは、カポエラがまだ法律的に認められておらず、当局に睨まれるのを避けるためであった。
1930年に軍事クーデターによってジェトゥリオ・ヴァルガスが大統領に就任すると、カポエラを取り巻く環境は一気に好転しはじめる。大統領は就任2年目に大衆文化の解禁を宣言し、その中にカポエラも含まれた。これによりビンバのカポエラ活動は活発になり、体育教育の科目として認められるなど、徐々に市民権を得るようになる。そうした流れの中で、いつしか彼の教義が『ヘジオナウ・カポエラ』の名前で定着していき、カポエラの中心地は再びリオ・デ・ジャネイロに移った。それまでのカポエリスタの多くが下層階級の出身者であったのに対し、大学生などの中産階級がカポエラを学ぶようになり、社会的イメージも良くなっていく。そして60年代以降、ビンバの弟子たちが各地に散らばり、スポーツとしてのカポエラがブラジル全土へと広がりをみせていった。
しかし、この現象に反発を示したカポエリスタ達もいた。彼らは「ヘジオナウ・カポエラは『カポエラ』ではない。ビンバは他の格闘技とごちゃ混ぜにして『カポエラ』の名を汚した」と非難した。そうした動きの中から伝統的なカポエラを守ろうと、『カポエラ・アンゴラ』が組織されていく。そこで中心的な役割を果たしたのが、メストリ・パスチーニャだった。彼が苦心したのは伝統的なカポエラの要素の整理と、かつてリオで受けた『暴力の象徴』というイメージの払拭である。彼らは遊戯性、奥深い駆け引き、儀礼性を保持しながらカポエラを普及させていく。しかし一方で、このカポエラ・アンゴラは伝統を残すために、靴を履いてカポエラをするといった新たな伝統も作り出している。また、黄色のTシャツに黒のズボンという派手なユニフォームは、彼の学校を支援していたサッカー・チームのユニフォームの色にちなんだものだ。一人歩きしていくヘジオナウ・カポエラに対する差別化を図ったカポエラ・アンゴラも、『伝統的なカポエラ』とはまた形を変えながら広まっていったのだ。
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| アフリカからブラジルそして世界へ |
| 今にいたるカポエラ発展の土台は、リオ・デ・ジャネイロやサンパウロなどのブラジル南部の大都市で作られた。60年代から70年代にかけて、農村地帯から豊かな南部地方へ多くの人たちが仕事を求めて移り住んだ。バイーア州も例外ではなく、その中には多くのカポエリスタが含まれていた。慣れない都会生活では同郷同士の繋がりが心の支えになる。休日に広場へ集まった彼らは、互いに故郷を懐かしみ家族に思いを馳せた。そして誰ともなくビリンバウを奏でると、そこにはサンバやカポエラを楽しむ輪が出来上がったのである。
その後、サンパウロでカポエラ連盟が結成され、スポーツとしてのカポエラの大規模な集会がリオ・デ・ジャネイロで開催された。そして、この2大都市から欧米にカポエラが広められていくこととなる。現在、世界中にある多くのカポエラ教室の大半が、躍動感に溢れたヘジオナウと、滑らかでしなやかなアンゴラの両方を教義に取り入れたものを教えている。
始まりはブラジルのアフリカ奴隷の歴史から。社会の歪みと流れにほんろうされ、紆余曲折を繰り返しつつも、たくましくそのリズムを刻み成長し続ける『格闘技カポエラ』。マスターの1人、メストリ・カンジキーニャはある雑誌のインタビューでこう語っている。
「カポエラには宗教も肌の色も国籍も関係ない。カポエラは世界に羽ばたいていく」。 |