キャシーの日々ハッテン day.102(2015年9月4日記事)

痛みを感じる大切さ

子どもの頃は泣きたいときに泣いて、怒りたいときに怒っていたが、いつしかそうした負の感情にフタをして背を向けるようになった。痛みを感じるのが怖くなったのだろう。

「差別されてもへっちゃらだ」とゲイの友達が言っていた。様々な難関を抜けてきた彼からすれば、日々受ける差別は少しうっとおしい風のようなものなのかもしれない。自分だってそうだ。通りすがりに「オカマ」とバカにされようが、何もなかったように歩き続けるだろう。めったなことじゃもう傷付かなくなった。自分を守ることばかり上手になってしまって、まるで重い鎧と一緒に生きているようだ。図太くなったとでもいえばいいのだろうか。ある日、その重たい鎧でヘトヘトになっている自分に気付いた。傷付くことがなくなったのは、自分が強くなったからじゃなかった。痛みを感じないように、必死になっていただけだった。しかし、痛みを感じないからって、そこに痛みがないというわけではない。

タンスの角に足の小指をぶつければ、死ぬほど痛い。小さかった頃だって、今だって、その痛みは同じだ。足を抱えて床にうずくまっては、罪のないタンスを呪った。生まれて初めてゲイだとバカにされたとき、心が疼いた。あのズキズキした感覚は今でもよく覚えている。インターネットのコメント欄でゲイバッシングを見たときや、ゲイの若者がいじめを苦に自殺をしたというニュースを聞いたとき、あの時感じたのと同じ痛みを今でも感じる。あの頃と違うのは、自分が進むべき道しるべがハッキリ見えていることだ。その痛みに支配されて前に進めなくなるということはもうない。だからこそ、その痛みを感じることを恐れることもないし、そこから逃げる必要もない。素直に感じるだけだ。

その痛みを感じるから弱いとか、感じないからタフだとか、そういうことではない。その痛みを受け入れるかどうかで勝ち負けを決めることもない。その痛みがあるおかげで、相手の気持ちを想像し、学ぶことができて、自分に何ができるかを考えるきっかけになるのだ。そこからどう前に進むのかを決めるのは自分だ。重い鎧なんてない方がずっと足取りが軽やかになって、もっと遠くまで歩くことができる。


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