サンドウィッチのなかみ (2014年8月1日記事)

Vol.57 もっとなんかないの~ォ

「あと2か月ぐらいかもしれない」と兄から連絡があったのは、母が入院してから3か月経った4月。その言葉にトロントの家の中を右往左往するばかりの私。母にその日が来ることが考えられないでいた。すべてをストップし、パッと飛んで日本に行くだけの度胸もない。

いずれ直面する母の死というものに対してまるで無防備な自分に気づかされた。心の準備が出来ていない。母をサポートする生活が始まったのは介護認定を受けた80代後半からか。ヘルパーさんやケアマネさんとの相談、デイサービス、訪問介護風呂、ショートステイで外泊練習、整形外科、内科、眼科、歯科、神経科の 医者めぐりに加えて薬の調達、補聴器の作り直し、車椅子で出かけた生まれ故郷など、家族ができる介護業務をしてきた。兄妹で一番母に苦労をかけたのが私だったから母の面倒は最後まで看る、などと意気込んでいたに過ぎない。

2年前に非結核性抗酸菌症が発覚し、母の薬漬けの日々が始まってから健康が急降下し始めた。去年の夏から異変が起こりパニック状態になり飲む薬が増えた。
素人が手をやいて介護できる範囲をはるかに超えてしまったので、施設を探し回ってたどり着いたのが友達の紹介してくれた病院。待つこと5か月。
諦めていたころに空きができて入院。何度か通って、安堵したところで私はカナダに戻ってきていた。兄の言葉に重い気持ちでまた5月に東京に戻った。母は悪性の肺炎を起こしたらしい。ただでさえ肺がやられているのに炎症がひどくなり血痰が驚くほど出たという。食欲をなくし、母は事実上の骨皮筋子さんとなり、体重は38キロまで落ちた。

しかし点滴と抗生物質が効いたのか、母がしぶといのか、私が駆けつけた時には熱がさがっていて、食欲も出てきていた。大体母の家系は皆96歳まで生き延びたから91歳で終わらせるわけにはいかない。

「私、死ぬんですか?」と看護師長さんに聞いたというから意識はかなりしっかりしていたようだ。7月のある朝、兄と2人で母の主治医と面談した。左の肺は4月よりずっと安定してきているが、心臓の横の大動脈瘤はさらに大きくなっていた。残念ながら止まるサイズなどないらしい。気管支や食道が圧迫されるので呼吸が苦しくなるのと、飲み込みも下手になるという。だが、酸素量は入院前の92から私とおなじ97まで上がっていたから不思議だ。いまは食事と食事の間が空腹でたまらないらしい。私の顔を見るとおやつ待ってましたとばかり顔がほころぶ。

母の好物のスイカ、バナナ、クッキー、薄焼き煎餅、ドリンク、まんじゅう、アンパンなどを毎回しょっていく。母のおやつに制限はなく、何を食べたか報告すれば後の食事の量を調整してくれる。その日の母の気分で欲しいものを適量食べさせる。便の検査では消化も良くできている、と師長さんのお言葉。トイレに立てなくなったので排泄はベッドでやらせてくれる。

プロに任せて本当によかった。幼児にするようにサブレを小さく割って差し出すと、「固い!」と叫んだ。「食べにくかったら無理に食べないでね」と促すも「固い!」ポリポリ、「固い!」ポリポリ、を一欠片ごとに繰り返しながら全部食べ、家でよく飲んでいたヤクルトの小瓶も3本飲み干した。バナナは私と半分ずつ食べる。
この調子なら8月の92歳の誕生日は難なくいけそう。おやつの後はいつものコースで別棟のレストランまで彼女の車いすを押していく。コーヒーとアイスクリームを注文し、母はアイスクリームをコーヒーにドボンといれて飲むのが定番。病院にいるから熱中症の心配もない。時々笑みを見せるようになった母。

目標は96歳ですぞ、母上。思いもよらない急回復に喜んでいると「もっとなんかないの〜ォ」と母がせがむ。こういう母だから私は準備なんかできないのだ。


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