サンドウィッチのなかみ (2015年4月3日記事)

Vol.65 上映会と歯磨き

3月19日。その日がやって来た。ふるさと愛奏委員会とボランティアの人達で盛り上げて来たドキュメンタリー映画『長面きえた故郷』の上映がいよいよトロント日系文化会館で開幕となった。カナダ初上映である。過去3か月間の何百通ものEメールのやり取りの結集だ。その日は関係者も私も朝から緊張しきっていた。

夜7時からの上映開始に午後1時まえからボランティアが駆けつけ、キッチン作業や6時から始まる受付のセットアップに余念がなかった。皆と合流する予定だった私も、バナーや募金のサインが無かったことに気がつき、パニック状態でサインを作り、会館に遅れて駆け込む。家族ぐるみで来ていたボランティアの方に手伝ってもらい無事に張りおえた。4時には民舞のグループが練習を開始し、音響のテストも無事終了。4時半には 稲荷寿司を作っていた人達や、レセプション用のおにぎりをボランティアで400個も一手に引き受けて作ってくれた凄腕の人、ホームメードの和菓子の提供、日本とインドの総領事の接待をしてくれたおもてなしプロほか切符・募金係などが一同に集まり、担当から役割の説明をうける。配られたお弁当を食べ、6時の開場に全員待機。というのが当日の裏方作業の大筋だ。みんなそれぞれに家庭の責任や仕事の時間をやりくりして参加してくれたはずだ。

日本から帰って3日目のこの日、私は「時差ぼけ」という語彙を頭に忍び込ませないように平静を装っていた。朝は旦那と普通の時間に起きて朝食を済ませた。栄養剤はすべて切らせてしまっていたが、買いに出ている暇はなかった。それでもこの日は気分上々。これなら会館のイベントも乗り越えられる。急いでプリントアウトしたサインを鞄につめ身支度をする。久々の車の運転もOK。

夕方来ることになっていた旦那には歯を磨いてからしっかり戸締まりをして出て来るように頼む。彼は私のよきサポートであり、いつも応援してくれる。しかし普段ファームにいる高齢の彼はトロントの家の防犯コードは一人で入れたことがない。一緒に何度か練習をし、一人でも出てこられることを確認する。

さて会館では民舞がはじまり、会場が人ごみでごった返してきた。懐かしい顔と顔。映画の中心人物モガール和子さんを応援する人達、お会いしたことはなくてもこのコラムを読んで興味をもって来てくださった人達、ボランティアの方々のお友達、チラシやウェブサイト、会館のポスターをみて来てくださった方々。そんな嬉しい人の流れのなかに混じって旦那の顔があった。 あ、来てくれたと私が喜び彼に近づいたその時。ドキーッ!

彼の話はこうだ。「君に言われた通り歯を磨き、念のため歯ブラシをポケットにつっこんだ。戸締まりをして店に買いものに行きそのまま会館へ向かった」。そして、私に会うまでまるで気がつかなかったという。差し歯を入れてこなかったのだ。最近作ったのでまだ慣れていなかったせいもある。彼は歯ブラシを持って来て、前歯2本を家に置いて来た。

社交的なほうではない彼もこの日、色々な人と映画や震災の話が出来るのを心待ちにしていた。でも前歯無しで相手に不快な思いをさせては失礼、とレセプションでは壁の椅子に座って遠くから一部始終を眺めて時間を過ごしたという旦那様。彼を知っている友達がそばにやってきて彼に話しかけてくれたのは有り難かったが、彼は笑うことも出来ないので自分からは誰にも話しかけることはしなかった。おにぎりも歯がなくては食べられないので我慢して手を出さなかったという。

家に帰ってゲラゲラ笑い転げた私達。全く笑い話になるような、ならないような珍奇な話だ。これから先、私は上映会をするたびに彼のことを思うだろう。ちなみにこの記事は彼の了解を得て書いている。私が「歯を磨いてきて」と言ったのが原因だったことを明記するという条件付きで。


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