サンドウィッチのなかみ (2015年5月1日記事)

Vol.66 ドンパン節

一度聞いたら忘れられない「ドンパン節」。3月にトロントで拙作の震災映画『長面(ながつら)きえた故郷』をご覧になった方は映画の後半で、この民謡が流れていたのを覚えているかもしれない。実は、それまで私は日本のラジオでたまに流れるのを耳にしていた程度で、民謡とはまるで縁がなかった。だが、主人公姉妹の家族の心の復興を表現する上で、この「ドンパン節」が、大きな役割を果たす。

”ドンドンパンパンドンパンパ〜ン“の音頭で始まる「ドンパン節」は歌詞のバージョンが多くどれがオリジナルなのか分からないほど。なかでも頻繁に歌われるのがこれ。〈唄コで夜明けたわが国は 天の岩戸のはじめより 尺八 三味線 笛 太鼓 忘れちゃならない国の唄〉明治時代に、秋田の宮大工だった高橋市蔵氏により作られ、棟上げの祝い歌として歌い継がれた。 後に、一般向きに編曲され数々の替歌の歴史を経て今日に至る。読者の中にも宴会で替歌を披露した人がいるだろう。調子が良くて面白いのにこんなのがある。〈うちの父ちゃんはげ頭 隣の父ちゃんはげ頭 はげとはげとが喧嘩した どちらも怪我ねでよかったね〉

映画に話を戻そう。石巻に住む福田祐子さんは陽気な人だったが、震災直後から心の病を患い、トロントから駆けつけた姉のモガール和子さんと過ごす数日に癒されていた。妹の健康を気遣う和子さんの心情もさることながら、目と鼻の先に住んでいた親代わりだった長兄とその家族を、震災により一夜にして奪われた祐子さんの悲しみは尋常ではない。歌好きの祐子さんは越路吹雪のシャンソンが好きだと聞いたことがある。でもまだ肌寒い3月のあの日、大好きなお兄さん家族を訪れ姪やその孫を前にして「ドンパン節」を歌った。〈おらいの孫はいらすけな(可愛い)3月で1.5歳です 高橋ヒヨリと申します みなさんよろしゅう頼みます〉〈今年の冬は寒かった 春の太陽待ちかねて高鶴(実家の店)へ来たよ 祐子節〉

身振り手振りで歌う祐子さんに歓声が沸く。その三日後、観衆は帰らぬ人に。そしてお兄さんとひ孫のヒヨリちゃんの遺体は終に上がらなかった。映画の編集中、裕子さんが歌った「ドンパン節」を使えないものかと打診すると、 快く録音してテープを送ってくれた。つらい思いをさせてしまったかもしれないのに、彼女の歌声は明るかった。映画の中に姉妹が親戚の人たちと一緒に、破壊された長面の実家に向かって歩くシーンがある。そこで、彼女の替歌「ドンパン節」を流した。石巻の上映会ではこんな感想を言う人がいた。「悲しくて涙が出そうになった時に、祐子さんのドンパン節が流れ、涙が笑顔に変わった」と。

トロントの上映日が決まり、民舞グループ”うらら“が開演前に東北の民舞を披露することになった。お願いして「ドンパン節」も入れてもらうことになり、練習風景の動画を送ってもらった。粋な男性の先生を先頭に皆の真剣な様子に目頭が熱くなる。これが私と日本伝統文化である民謡との真の出会いとなる。当日、”うらら“のメンバーである和子さんも両手を広げて表情も明るく艶やかにドンドンパンパンを踊り続けた。白と紺色の浴衣に身をつつみ”うらら“が総勢で踊る姿は眩しいほど、キラキラ輝いていた。亡くなったご家族へ届け、届けと祈るような気持ちで、私もドンドンパンパンを大声で歌った。

「ドンパン節」は単なる一地方の民謡ではなく、大事な人と過ごした時間の宝物であり、また、他界した家族への追悼でもあり、「大丈夫、皆の分までしっかり楽しく生きて行くから」という残された人たちの意気込みのような、そんな不思議な力を秘めた歌なのだ。

〈私の生まれた長面は 松原 海水浴場、浦海と牡蠣の養殖とハゼぬらし〜(替歌・福田祐子)〉

ドンドンパンパンドンパンパン ドンドンパンパンドンパンパン ドドパパドドパパドンパンパ〜ン


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