サンドウィッチのなかみ (2015年6月5日記事)

Vol.67 二人の挑戦

運転歴60年、無事故、無傷に輝くうちの旦那は運転の優等生だった。だがちょっとした事故がもとで再テストさせられることになってしまった。 普段はトロントから2時間はなれたファームに住んでいる彼にとって運転が出来なくなるということは、生活の大部分をもぎ取られるほどつらいものなのだ。私が迎えに行くからといって単純に済む問題ではない。筆記と実技の挑戦が始まる。

実はそういう私もカナダと日本を往復している間、何か新しいことを勉強するのも悪くない、と日本で資格取得の通信講座を1年前から始めていた。本音は新しいことへの自分の習得力を知りたかったからだ。しかし思いと現実の差は厳しく、教科書6冊は読んだ先からきれいに忘れていった。集中力、記憶力の低下をまざまざとみせつけられた。 添削問題は教科書を見ながらでなければ回答できない、という惨憺(さんたん)たる現実にも開き直って向き合う私。

彼の方は教材を読んでも頭に入らないと言う。記憶としてキープできないのだ。ここが若い頃と違う。しかし勉強の仕方にもよる。学習タイプには二通りあると昔聞いたことがある。ビジュアルにものを考える人は絵や図解でよりよく理解し、リテラルな人は紙にかかれた文字で理解する。私は前者。何かを計画しても文章にして書くよりも先にビジュアルにものが見えてくる。旦那も建築設計が専門だったのでビジュアル派なのだ。高齢になって文章の重要な箇所を頭に叩き込んだり3日間キープしようと思ってもどだい無理なのだ。

学習に嘆く旦那には自分の手で道路や車の絵を線書きしてみたらと勧めた。車間距離だの必要な数字を自分の手で書き込む。本を眺めていても自分の物にならない。書くと自分が動かすペンの動き、曲がりくねった数字の筆跡は忘れないから。それを彼は実行してみたようだ。数日後、100点を取ったとエキサイトした連絡が入ったときは私も歓声を上げた。ペーパーを見直して2つの誤りにも気づき落ち着いて訂正することが出来たという。つぎは実技。まかしとけ、とばかり力む彼。

私のほうは1か月先の試験に控え、ルール的な物は並べ替えて音やゴロで覚えたり、数式は見やすいように書き出して分母と分子が同じ所は赤で丸印、というように視聴覚で覚えた。とにかく試験日まででいい。学生時代の適当な勉強法と同じだ。始めた以上やるしかない。

運転実技の試験官は結構細かいところを見ている。できたら高齢者は道路から排斥したいと思っているかもしれない。いかに旦那の運転歴が長くても習慣のなかに隠されたエラーがありうる。だから100点をとったテストの内容通りに運転したのにプロベーションにもされてしまう。結局どんなに自分が正しいと思っても試験では役に立たない。試験官はボスなのだから、ボスの見たい通りの行動を【見せる】必要がある。たとえばブラインドスポットは、肩をちょっと動かす仕草を見せなければ試験官にはわからない。「首をひねっただけで俺は全部見えるんだ」と頑張ってみても駄目なのだ、とうるさい私がいう。

私の方はカナダで最後の勉強を終え日本で試験日を迎えた。若い人達の間に入って数時間鉛筆を走らせる。また学生に戻ったようなちょっぴりスリルを味わいながら。そして講座を完了するという自分への挑戦がこの日、終了する。不合格になっても、やり遂げたという実感は残るだろう。

数日後、母がまた高熱を出したので病院に駆けつけた。しかし抗生物質のお陰で大事にならずにすみ食事を開始。ほっとして家に戻ると郵便がきていた。試験のことが事細かに書かれてあり、合格したと気づくまでに5分はかかった。再試験のご案内と私は勘違いして読んでいた。そして無事カナダに戻ると旦那のほうのドライブ実技試験もついに合格! まだまだいける、と若さを実証した二人デシタ。


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