サンドウィッチのなかみ (2015年9月4日記事)

Vol.70 70年後の真実

終戦70年を迎えた8月、私は日本でこれを書いている。米国の極秘資料や映像がすでに解禁。日本の機密文書も公開された。歴史教育やり直しのようなテレビ番組が連日流れる。高齢の前線体験者の証言を聞くのもこれが最後かもしれない。

資源確保と解放を旗印に大日本帝国は東南アジアを含む大東亜共栄圏(共通語は日本語とする)を築く野望をもっていた。1941年、陸軍がマレー半島を、海軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃し太平洋戦争が始まる。勝利に沸き立っていた日本を、英米仏蘭が反撃する。1942年のミッドウェー海戦やガダルカナル島の激しい交戦で日本は大惨敗。しかし国民には知らされない。雨のような焼夷弾が無差別に大都市に投下され、大阪、神戸、大分、横浜、東京は焼け野原となる。黒こげの死体の山が米国の動画にあった。

東南アジアに送られた5万人の従軍看護婦の1人だった99歳の女性の証言がある。マラリアの治療薬がないまま兵士が前線へ送られて来たという。ビルマ(現ミャンマー)の野戦病院では、たとえ失明していても歩ければ戦場へ再び連れ出された。死なせるためか、何のための看護だったのか、と彼女は問う。大勢の死者を葬る穴も掘れず、衛生兵に手伝わされ腕だけ切断し埋葬する。

10代の少年によるゲリラ部隊「護郷隊」が沖縄にあった。米軍キャンプを偵察し、燃料タンクを爆破させる。だが敵の襲撃を避けるため歩行不能の少年を軍医が毛布をかぶせて銃殺した。その目撃者は70年後の今日までそのことを隠し続けた。今年の沖縄全戦没者追悼式でその少年の弟と対面した彼。「兄の戦死について知りたい」。70年前の恐ろしい記憶に彼は言葉が選べない。「…拳銃でね…その…」。

戦闘機もつきた日本はベニヤ板で何千もの特攻ボート「震洋」を造った。飛ぶべき特攻員がベニヤの船で大海に出る。爆薬を搭載して敵艦に体当たりするという無茶な戦略だった。終戦後も敗戦を受け入れられず出撃を命じていた上官もいた。それを拒んだ勇敢な将校の存在が明らかになる。彼のお陰で一部隊全員生きて帰還した。震洋の死者2500名。

3年8か月続いた戦争は70年前、米軍による広島と長崎の原爆投下で20万人の死者を出し終焉を迎える。異国で終戦を迎えた人の数は300万人という。  現在、安倍政権の集団的自衛権の容認は積極的平和を目指すというが、日本が戦争に巻き込まれる危険はある。そのとき指揮官になるのは戦争を知らない世代だ。恐ろしい。自然現象による災害は避難対策で命を守ることができるが、戦争は人間が起こし、命を奪い合う。国のために積極的に殺すのか。指導者は地球人の視野で責任を考えて欲しい。


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