サンドウィッチのなかみ (2016年5月20日記事)

Vol.78 オー、カナダ

朝目覚める時、ここは何処だろうと今でも戸惑う。東京ではベッドの右に洋服ダンスがあり、トロントでは左にある。どちら側へ転がるかは窓を見ると決まる。時差ぼけから早く抜けるためにスーパーへ行き、友達と会い、週1のイタリアン合唱団の練習に参加する。日本では母にしか歌う機会がなかった私は、トロントの合唱活動を楽しみにしていた。先日もオンタリオ州のイタリア移民労働者を記念する式典に招待された。労働基準法がまだなかった頃、約1,000人のイタリア人労働者が作業中に事故で命を落としたという。その記念碑がこの日除幕された。

少し日本とイタリアの移民の話をしよう。ブリティッシュコロンビア州のNikkei National Museum & Cultural Centreによると、第二次大戦時カナダには日系人が約2万2,000人程いた。一方イタリア人は第一次大戦までにすでに12万人がいた。しかし第二次大戦時下のカナダでは、イタリアは日本と同様、ナチスと三国同盟を組んでいた敵国。日本人が差別と偏見でカナダ社会から迫害され強制収容されたように、イタリア人もオンタリオ州北部のペタワワ捕虜収容所に送られた苦い経験を持つ。

だが戦後、カナダは経済発展に伴う人材不足から移民対策で50万人以上のイタリア人を受け入れることになる。多くは貧困に苦しむイタリア南部の農業地域の人達で、豊かな生活環境を求め、夢の国カナダへ移住した。鉄道工事、道路建設、ウェランド運河建設、ビルの建設、伐採や炭坑、と肉体労働なら仕事はいくらでもあった。なかったのは労働者の補償だ。当時、事故死や事故による怪我で再起不能になっても補償は無きに等しく、家族は苦境に立たされた。

近年イタリアン・コミュ二ティは繁栄し、2011年の国勢調査ではカナダ全体で日系の人口の約14倍にあたる約149万人にまで膨らんだ。その生活の拠点となっているのが、ここトロントとモントリオールだ。

除幕式で遺族の方々が花輪、ヘルメット、シャベルなどを添え終わると、高齢の1人が語った。当時28歳の父親は朝出かけたきり戻らず、見知らぬ国で母親は子ども2人を1人で育て上げた、と。私達が今日こうしてハイウェーを走り、VIA鉄道で大陸横断し、ウェランド運河を通る巨大貨物船によって海外との物流の恩恵が受けられるのも、泥まみれになって働いた先駆者の過酷な労働の上に築き上げられた賜物、と改めて認識させられる。

カナダの国歌「O Canada」を歌ったあと、イタリア国歌「Inno di Mameli」に自然と力が入る。イタリアのサッカー球場で歌われるあの威勢のいい歌だ。向かい側の来賓席からイタリア人らしからぬ合唱団員を眺めていたトロント市長ジョン・トーリー氏の姿もあった。彼の大胆な水玉模様のソックスがなぜか記念碑とともに記憶に残る。



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