命のすべてを新しい作品へ
Naoko Matsubara
版画家 松原 直子 (2016年1月22日記事)

国際的な版画家が駆け抜けた濃密な20代

トロントダウンタウンのAbbozzo Galleryにて、昨年10月1日から1か月間に亘り、オークビル在住の版画家、松原直子さんの個展が開かれた。 リズミカルに木を削る音が聞こえてきそうなほど、躍動感溢れる松原さんの作品のイメージ、そして、これまでの50年間の作品が集められたことから『Dancing with Wood:50 Years of Woodcuts by Naoko Matsubara』と題された個展。そのオープニングには地元の人々が大勢駆けつけた。

現在オークビルにある自宅のアトリエを拠点に活動をしている松原さんは、1960年に京都市立美術大学を卒業後、フルブライト奨学生として、ピッツバーグにあるカーネギーメロン大学大学院に留学。その後、特待生としてイギリスのロイヤル・カレッジ・オブ・アートへの留学を経た後、一度日本に戻るも再び渡米し、芸術家としての時間のほとんどを北米で過ごしている。「音楽や詩、記憶に残る美しい景色などインスピレーションは色々なところから受けています」というその作品は、アメリカ、日本、カナダなど50余りの著名な美術館で所蔵されている。さらに、個展の開催も世界各地でしている国際的な版画家だ。自らの版画家人生について、「私は本当にいい先生、人との出会いに恵まれました」と話を始めてくれた。

「特に日本の大学で受けた美術教育が私にとって最高に素晴らしかったです。先生はオーストリア人。ヴィエナセセッション(ウィーン分離派:19世紀末のドイツ語圏における芸術革新運動。古い美術機構からの分離として発足し、自由で国際的な芸術表現を目指した)という美術教育の洗礼を受けた先生で、美術において広い世界を見せていただき、また、私に外国に出なさいと勧めてくれました」

そしてフルブライト奨学生として、カーネギーメロン大学院に留学した松原さん。当時、専門分野を決めかねていた松原さんにとって、強い印象を与えたのは学長の言葉だった。

「大学院生のあなたには、受講科目について試験に合格しないといけないという義務は与えません。好きな授業を好きなだけ取ってもいいですよ。その代わり、ここにいる間に自分にしかできない大きな穴を掘ったらどうでしょう」

その言葉通り、壁画や石版画、シルクスクリーンなどいろいろな分野に挑戦していた松原さんが、“木版画をやろう!”と強く思ったのはある音楽コンサートがきっかけだった。

「友達に誘われて、シタール奏者のラヴィ・シャンカルのコンサートに行きました。シタールという楽器について、当時見たこともなければ聞いたこともありませんでしたが、満席の会場で聴いた彼の音楽に感激し、“あの夜の強烈な印象を版画に残したい”とその翌日から何週間もかけて彫りました。そして、 日本から持ってきた和紙に刷り、その版画を眺めていた時に、“これこそがあなたが入っていきたい道ではないか?”という心の声が聞こえてきました。そう思った途端から洪水のようにアイデアが湧いてきました」


▲©2015 Royal Ontario Museum(ROM)
Cat’s Cradle B, 1994, Colour woodcut print


▲©2015 Royal Ontario Museum(ROM)
Miyako Odori, 1977, Colour woodcut print


棟方志功の手紙で版画の道を確信

以降、木版画制作に集中していた松原さんだったが、「もう十分に勉強されたので、1年で卒業してください」と大学側から言われ、同時期の卒業生らと卒業制作として展覧会を開くことになった。その後に向かったロンドンへの留学は、その展覧会で松原さんの作品に感動したテキサス大学の教授の計らいによる。ロンドンにあるアートの名門校、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートに特待生として入学することになった松原さんにとって、ヨーロッパはアメリカ留学を終えて日本に帰る前に、ぜひ行ってみたい、と夢見ていた土地。松原さんは、アメリカの大学卒業時の展覧会で作品が売れた時のお金を持って、イギリスでの留学生活を終えたあと、およそ8か月をかけてヨーロッパを廻った。

「あちこちの美術館に出向いては、美術史で習ったことを自分の目で確かめました。ヨーロッパを回った後インドにも行って、最後に香港から台北に着いた時は、もう自分の興味のスポンジがいっぱいで、友達から誘われても、何1つ見たくないほどでした。いろんな作品を見ているうちに、自分がいいと思うもの、面白いと感じるもの、興味のあるものが何なのかが、はっきりしてきました」

ヨーロッパ旅行を終えて日本に一度戻った松原さん。そこでさらに版画をやっていく強い確信を得たのは、 尊敬する版画家、棟方志功(むなかた しこう)氏からの手紙だったという。

「彼に作品を送り、その返事でいただいた自筆の手紙は今でも大切に持っています。あんなに素晴らしい方に褒めていただけたのは、感激して泣くほどすごく嬉しかったです」

『竹取物語』や芥川龍之介の『杜子春』の出版、 棟方志功氏が主催する展覧会での受賞など、日本でも順調に活躍していた松原さん。再度の渡米は、“才能のある女性にとっては、アメリカの方が日本より居心地がいいのでは?”と、 日本人を父に持つアメリカ人女性建築家による勧めと尽力による。留学で親元を離れ、やっと日本に戻ってきた松原さん。お母さんは、寂しい気持ちを抑え「これはあなたの運命だから」と背中を押してくれた。


苦しい時期を版画で克服

2度目の渡米は1965年。この時は、ニューヨークやボストンなど拠点を移しながら制作活動をしていたが、一番思い出深い土地は、小説『白鯨』の舞台で知られるボストン沖にあるナンタケット島。その美しい島での時間は、人生で一番作品作りに没頭した時期であったといい、松原さんはこの島についての作品集も出版している。それほど充実した日々を送っていた中、カナダのオークビルへ移ったのは、トロント大学の教授であるご主人との結婚が理由だ。アメリカとカナダ、地理的には近いものの、芸術を取り巻く環境の大きな違いに戸惑い、移住してきた当初の松原さんは、ホームシック、そして産後のうつ病に悩まされてしまう。

「それまでホームシックなんて縁がなかったのに、生まれ故郷の京都が恋しくなってしまいました。まだ熱があるような時期だったんですが、“京都をテーマにした版画を作りたい”と思い、1年でできるようなものを4年かけて作りました。そして、作品を作っている間に、気づかないうちにうつの症状がなくなったんです。あの時必死に作った作品はどれもこれも今でもすごく気に入っています。

京都の情景を作品に投影した元になったものは記憶です。ほかの作品もそうですが、写真を見ながら描くと、それに捉われてしまうので写真を見ることはないですね。自分が知っている祇園祭り、自分が知っている西陣。自分の記憶にある印象を凝縮するように1点、1点、丁寧に作りました。特に京都は昔からいろいろな芸術家がテーマにしているので、例えば舞妓なら、私にしかできない舞妓を作りたいと思っていました。苦労しましたが、その分、出来上がった時はすごく嬉しかったです」

松原さんにとって、苦しい時のセラピーになった版画。「松原さんにとって版画は生きがいでしょうか?」と問うと、次の言葉が返ってきた。

「仕事をしていないと、生きている気がしない。仕事をしている時が一番楽しいです。もちろん、うまくいかない時だってありますよ。それでも、経験を積み重ねていろいろ賢くなっていくものです。版画家としてのキャリアは55年になりますが、私は常にやったことのないことをやりたいと思っています。中には、あのシリーズを続けて欲しいなど、好評だったシリーズについておっしゃってくれる人もいますけれど、同じようなものを作っても、命が入っていないんですよ。最初に命をすべて入れてしまっているので。世の中は常に動いているでしょ。私は常に新しいものに命を注ぎ込んでいきたいと思っています」。


 
 


Biography

まつばら なおこ

オークビル在住の版画家。東京国立近代美術館、ボストン美術館など世界各地の美術館で作品が所蔵されている。2002年、『今昔物語集』など作品集も多数出版。今年6月にはベルリン国立博物館アジア美術館にて、秋には中国湖南省にて個展が予定されている。5月31日までROMの高円宮ギャラリーにて、松原直子さんの作品を展示中。