『赤毛のアン』は大人の文学
Yuko Matsumoto
作家・翻訳家 松本 侑子 (2015年12月18日記事)

原書の魅力を最大限に引き出した日本ではじめての全文訳

10月、「Japan-Canada Literary Conversations」という催しが、日本ペンクラブとカナダペン主催、国際交流基金助成、トロント大学の協力により行なわれた。この催しに参加するため、松本侑子さん(作家・翻訳家/日本ペンクラブ常務理事)がトロント大学を訪れ、「『赤毛のアン』カナダと日本の架け橋」という演題で、英語の講演を行なった。

『赤毛のアン』は、カナダの作家L・M・モンゴメリが書いた長編小説。ノヴァスコシア州生まれの親なき子アンが、プリンス・エドワード島(以下PEI)のグリーン・ゲイブルズ農場に住む兄妹に引き取られ、島の美しい自然の中で少女から若い娘へ成長していく物語だ。昨年は、『赤毛のアン』を初めて日本語に訳した村岡花子さんの半生がNHK連続テレビ小説で放送されたこともあり、この小説が再び注目を集めている。

松本さんは講演で、『赤毛のアン』がどのように日本に紹介されたか、そして日本に与えた影響として、向学心のある女性像、西洋菓子作りやパッチワークの流行があると語った。また作中に登場する英文学、スコットランド民族の伝統、キリスト教の隣人愛についても紹介した。

『赤毛のアン』の書籍は、 さし絵が多く、ルビが振ってある子ども向けから大人向けまで、様々な翻訳本が出版されている。その中で日本初の全文訳は、松本さんが翻訳した『赤毛のアン』(集英社文庫)だ。松本訳『赤毛のアン』は日本初の全文訳であると同時に、作中に引用される英文学、カナダの歴史を解説した訳注、物語の舞台プリンス・エドワード島の写真と地図も収載している。

「元々アンの大ファンでシリーズの文庫本をすべて持っていました」という松本さん。実は、集英社から『赤毛のアン』の新訳を頼まれた際、最初はお断りしたのだという。

「私は村岡花子先生の翻訳を愛読していたので、村岡先生の名訳がありますから私が訳さなくてもいいと思います、とお断りしたんです。でも集英社を出た後、“そういえば原書で読んだことがない”と気づいて、本屋でペーパーバックを買いました。すると巻頭に、今まで訳されていなかったイギリスの詩人、ロバート・ブラウニングの詩が載っていたんです。“あなたは良き星のもとに生まれ、精と火と霧より創られた”と。それまでの翻訳では、11歳のアンが孤児院からPEIに来るところから始まっていたんですが、原書ではアンの誕生を祝福する詩で始まっていたんです」


▲『赤毛のアン』 L・M・モンゴメリ 著/
松本侑子訳/集英社文庫


▲『赤毛のアンのプリンス・エドワード島
紀行』松本侑子/JTBパブリッシング


さらに原書を読み進めていくと、村岡訳では約500か所にわたって語句、段落、場面が省略されていることが分かり、日本初の全文訳をすることになった。翻訳を進める上で、原書にところどころ出てくる古風な言い回しに気づいた 松本さんは、引用句辞典、英文学全集などを英国図書館などで調査して、シェイクスピア劇、バイロンやワーズワース、アーサー王伝説、イエスの聖杯探索物語からの引用が約100か所あると解明。また原書には、19世紀後半のカナダの政治、社会、経済について描かれていたことも初めて知って驚き、巻末で解説した。

「アンを育てる養父マシューは、全財産を預けていた銀行が倒産して、心臓発作で急死しますが、実際にその時期にカナダ東部で金融恐慌がありました。また保守党と自由党の対立、初代首相マクドルナドの遊説といった政治も書かれています。アンはスコットランドの民族衣裳を着て、スコットランドの歴史を語り、スコッランド系カナダ人です。親友のダイアナは、北アイルランドの伝統衣裳を着ていてアイルランド系です。そうした描写も従来は訳されていませんでした。カナダの魅力は、多様な民族が仲良く生活しているところだと思います。『赤毛のアン』には多民族国家としてのカナダも描かれているのです」

松本侑子さんの日本初の全文訳『赤毛のアン』により、日本における『赤毛のアン』の認識は、児童書から、20世紀初頭のカナダ文学へと大きく変化。さらに2008年にNHK教育テレビで放送された「3か月トピック英会話『赤毛のアン』への旅」では、松本さんが講師役、女優の松坂慶子さんが生徒役を務め、プリンス・エドワード島とオンタリオ州でロケをしながら、物語の英文とカナダの歴史、文化を紹介。大好評により再放送、DVDも発売された。カナダ取材で得た豊富な知識を活かして、『アン』シリーズの舞台と著者モンゴメリが暮らした土地を旅するカナダツアーを毎年、企画主宰して、ツアーに同行。約300人の日本人をカナダ東海岸4州に案内して、物語とモンゴメリについて解説している。

「作者のモンゴメリは、PEI生まれですが、10代はサスカチュワン州で過ごし、学生時代と新聞記者時代はノヴァスコシア州ハリファックスで暮らしました。そして牧師との結婚後は亡くなるまでオンタリオ州に住んでいたんですよ。トロント空港近くのノーヴァルには暮らした牧師館と教会があります。またトロント市内の地下鉄ジェーン駅の近くに、自宅が今も残っています。私のツアーでは、PEIのグリーン・ゲイブルズに行くだけではなく、モンゴメリが学んだハリファックスのダルハウジー大学にもご案内して、大学から特別許可を頂いて、モンゴメリの署名入りの入学書類も見せてもらっています。この大学は、『アン』シリーズ第3巻『アンの愛情』で、アンが通う大学のモデルなんですよ」

最後に、カナダに住む読者へのメッセージとして松本さんは、自身の翻訳本とともに、英語の得意な人にはぜひ、原書でも読んで欲しい、と強く勧めた。

「美しい紅葉の描写、長かった冬が終わり春が来た喜び、そして夏の素晴らしさなど、カナダに住んでいるからこそ感動できる部分がたくさんあります。ぜひ原書で読むことに挑戦してみてください。より楽しんでいただけると思います」

文学としての奥行きが伝わる松本侑子さん訳の『赤毛のアン』は、少女の成長だけではなく、アンを育てるマシューとマリラの大人の成長、人生の後半生の生き直し、家族の愛も、感動的に描かれている。子どもの頃に読んだことのある人も、大人になった今、ぜひ松本さんが翻訳を手掛けた『赤毛のアン』を読んで欲しい。児童文学としてのイメージが覆り、大人の文学として楽しめるだろう。



 
 


Biography

まつもと ゆうこ

1987年、『巨食症の明けない夜明け』ですばる文学賞受賞。日本初の全文訳・訳注付『赤毛のアン』(集英社文庫)で脚光を浴びる。著書に『赤毛のアンに隠されたシェイクスピア』(集英社)など多数。2010年、評伝小説『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』(光文社)で新田次郎文学賞受賞。

松本侑子ホームページ:
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